Tokyo Submarine Airport 1999-2006 08

 僕は彼女の幼い頃の記憶に触れた。それは彼女の母親が、彼女に何度も話して聞かせた話の記憶のようだった。

 幼い頃の彼女の内面的な鋭さは、まわりの小さな子供たちをちょっとしたわけのわからない恐怖(おそらくそれは恐怖に近い感情だったろう)に陥れた。実際彼女を見た大人たちは気付かなかったかもしれないが、小さな子供たちはわかった。彼女が賢さと美しさの「もと」のようなものを持っていて、彼らはそれに逆らう事が出来なかった。彼らは彼女を避け、彼女はほんの一部の人間、母親やネコを除いて、心と表現力を閉ざした。心を閉ざした彼女はいっそうクールな賢さを内側から冷気のように出していたが、それはとてもよく見てみないとわからないくらいだった。そんな彼女に母親は缶詰された心について話した。
 「私も小さい頃あなたみたいになったのよ、ユカ。あなたの心は今缶づめにされてるの。心は透明な金属で出来た缶の中に入れられてしまっているわ。」母親は彼女のきれいな髪をなでながら話した。母親と過ごす時だけ、彼女の透明な金属は薄く、さらに透明になるようだった。
 「その缶はもう、無くならないわ。でも開ける事なら出来る。あなたの好きなケイにも缶詰のお魚をあげるでしょう?空けられない缶は無いの。でもどうやって開けるかはあなたが見つけなきゃいけない。お母さんの心はね、ビンみたいなものに閉じ込められてたの。押しても引いてもまわしても、ビンは開かなかった。ちょっと簡単ではないのよ。パパがやるように、ふたの端っこをたたいて、それからやってもだめなの。結局、なんだか鍵が必要だったわ。つまりね、私が言いたいのは、全然簡単じゃないって事なの。鍵はあなたのパパが持ってたわ。17歳の頃よ。ユカも鍵と缶切りを見つけなさい。自分の中にあるかもしれないし、他の誰かが持ってるかもしれない。あなたは私よりもっと特別な力を持ってるわ。それがなんだかわからないけれど、あなたの心は私よりずっと取り出すのは大変だと思う。いい?ユカ。私が手伝えるのはここまで。缶づめされた心を取り出しなさい。そしてステキな缶切りを持った男の子を(それはきっと男の子よ、と母親は言った。)見つけなさい。」

 僕は彼女の缶を探そうと決めた。しかし缶を探すのは、コンピューターでは無理だった。コンピューターを通じて透明なものを判断するのは難しいのだ。仕方ない。僕がまた彼女の夢に入ればいい。僕がその男の子だ。そして青く透明なナイフがキミの缶を鋭く切って開けるんだ。僕は彼女に向かって静かに言った。相変わらず言葉は僕の口から出た瞬間に消えたけれど、今では確信があった。その頃にはもう完全に僕は、大抵の男の子と同じように彼女に恋をしていた。

 夢の中の心と、その「殻」を扱った事はあったけれど、本物の心を、意識の中で探すのは完全に初めてだった。
 彼女の意識は夜がとても多かった。夜が彼女の中では肥大していた。僕は中途半端な夜の中を歩いていた。空が雲で覆われていて、まだ明るかった。沈んでしまった太陽の光が反射しているのだ。壁に立てかけてある自転車に乗って進んだ。自転車は何故か電車のようにカタン、カタン、と音がした。どこかがおかしくなったのか、それともあたりが静かすぎて聞こえるのかわからない。やがて音が消えた。街灯が、まだ明るいのについていた。やがて暗くなった夜の街を、僕ははっきりした目的地へ自転車をこいだ。音も無く走る車の群の流れに乗ってずいぶん走った。広い公園の中の、木に囲まれた小さなカフェが目的地だった。CLOSEDという札を無視して青く透明なナイフで鍵を開ける。真っ暗な店内で、冷蔵庫の音だけが低く響いている。月の光に惑わされ、どこかに潜む黒い魔術師がささやく。思った通り冷蔵庫はドアになっている。階段を下りたところで、今回は倒れてはならない。さらに降りなければ。
 ずいぶん長い間迷路のような通路を歩いていた。時折波の音が聞こえた。静かに降る雨もあった。僕はゆっくりと歩いた。誰もいない。時折狭間に見える空を見上げると星が瞬く。もう本当に疲れたという頃、缶が殻となった心は行き止まりに浮いていた。思ったよりずいぶん小さい缶だった。ナイフが入る小さい穴が上の方にあった。心が少しずつ、かろうじて漏れている。僕はナイフを入れてぐるりとまわした。透明な金属はするりと切れた。缶から心があふれた。その光に僕は意識を失った。