Tasaki Tsukuru 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

少し前に出張中飛行機や移動中にインタビュー本、
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」を読んでいたが
その中で村上春樹本人が話している内容が
いくつか多崎つくるの言葉・気持ちとして出てくる。
すなわち毎日1時間半とか2時間かけて
通勤という時間に1日の内の時間を割いている人々
それはとてもきちんとした、しっかりした世界なのだという事とか。

それとやはり一連のオウム真理教事件の
被害者加害者へのインタビューから出てきたであろう話も多い。
新興宗教的な一見クリーンな
教育プログラムによる強力サラリーマンの作成、とか。

1Q84ではそういったことも特に何も考えずに
読み進めることが出来たのだが
今回は特にリアリズムな内容であること、
主人公の年齢に自分の年齢がかなり近くなったこと、
あるいは自分自身が結局その他大勢の人たちに埋もれていき
色彩を帯びた時期はすでに過ぎ去ってしまったのではないかと思えることなど
どちらかというと認めざるを得ないつまらなさ、そういう部分が
見えてしまうような気がした。
どこにも行かないし、相変わらず結論はない。

プログラムに反発する人間もいくらかは居る。
何にでも反抗的な連中と、それと、本当に自分の頭で考えられる人間だ、
という話が途中で出てくる
自分が会社の研修で受ける印象はまさにこれか、
個人の考え方を無理矢理変えるような、それでいて
綺麗な風を装った研修は実際自分で受けていて、
それを素直に周りの人間が受け入れていることに気持ち悪さを覚える
みたいな構図

例えば海辺のカフカで出てくるフェミニストを打ち負かすというか、
撃退するシーン。ああいうスカッとする部分。
とても共感するし、言いたいことを言ってくれたという強い感覚があるが
あくまでそれは物語の中で出てくる一部であって、
それ自体はさほど物語そのものに影響を与えないんだけど、
今回は読んでいてそういう部分しか入ってこなかった、というか。
あと、主人公の一人の女性の名前が自分の子供と同じ発音であることも
ちょっとした違和感を出しているのかもしれないと思う。

おまえはおれのこと嫌いだろう?
みたいなやつ。
おれも好きじゃない。
でもそうなってしまったんだという部分

やれやれ、自分がそうなっていないか確信は持てない