lifelog

検索脳と外部記憶、それからライフログとこのブログについて。
シリーズ3回目。ライフログ。

ライフログという試みは何度かメディアで目にしているので、
知っている人も多いかも知れない。
毎日の生活を24時間、部屋中にビデオを設置して
全て録画する、という一見アート作品のような、
あるいは趣味の悪い監視マニアみたいな試みがあったり、
常にGPSユニットを携帯し、自分の行動範囲を保存しておく、など。

ここまで極端にいかなくても、自分の生活の一部をログを取る、
すなわち自分の生活を定点(時間?でもなんでもいいが)観測的に記録する
という行為は数年前に比べて格段に簡単になっていると思う。
その理由は、ログを取る機械としての携帯電話だ。

圧倒的に普及したデジカメ機能付携帯電話によって
日常の適当な風景を記録し、残す。

デジタルカメラの普及もそれを促す。

僕自身が2001年にロンドンを旅行したとき、撮影した写真の枚数は
1週間で200枚程度だった。
2006年にタンザニアを旅行したとき、撮影した写真の枚数は同行した
同期達のものを合わせて2000枚を超えた。

携行していたデジカメの性能は2001年から2006年の間に格段に向上している。
携帯性、記録するメモリーの容量、バッテリーの持ち。
これらによって明らかに撮影は手軽になっている。

明らかにこれは外部記憶装置の発達による、写真撮影のライフログ化である。

何か綺麗な風景があるから写真を撮る、
面白いモノがあるから写真を撮る、
記念に写真を撮る、
という行為から、
適当に撮ってみて後で見てみる
特別な瞬間でなくても記録する
という行為へ。
僕自身で言えばかなりそういう傾向は顕著だ。

これらを補助にすることで記憶を呼び覚ましやすくしている気もするが、
ライフログにおいて問題点は写真は写真であり、
その瞬間見ている現実とはやはり離れているという点だ。
写真でなくても、記録する機器が現在ではリアリティという点において
まだまだ人間の感覚に追いついていない。

現実と離れている写真を見続けていると、
やがて現実の記憶が薄らいでいて
写真の影響が強まり、写真=記憶の風景、あるいは色
になってしまっているようで恐ろしい。

脳ががんばって記憶することをやめていっているようで。

写真より実際に見た風景を心に(脳に?目に?)焼き付けたいので
写真は撮らない、という人も聞くけれど、僕にはそんな自信がない。
細部まで思い出せない。