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TV and aibo

この写真は2004年、実家の1階で撮った。
僕が会社に入社した年だ。
ブラウン管のテレビが壊れたので試しにあけてみて
その様子をaiboが見ている。

こういうときこそ何か書くべきな気がするが特に思い浮かばない。
火曜日に母方の祖母が亡くなった。

25で結婚するまで一緒に暮らしていた。
1階に祖父母がいて、よく遊びに行った。
1階は絨毯で、たぶん写真は1度張り替えた後だ。
記憶の中では紫のような、ベージュのような、
居心地の良い空間だった。

今はフローリングになってしまって、あまり好きではない。

1階に行って何をしたわけでもないが
そこにはいつも文藝春秋アサヒカメラがあった。
文藝春秋に掲載された芥川賞受賞作とかを読むようになったのはたぶん相当
後の方で、小さな頃はその雑誌を開いて読んだ記憶は無い。

アサヒカメラには風景だったり人物だったり必ずコンテスト写真が掲載されていた。
自分で写真を撮りたいと思ったことは一瞬も無かったが、
思えばアサヒカメラをいつも見ていたので、後に「構図がうまい」と
言われるような写真をデジカメで撮るようになったのかもしれない。

2種類の雑誌は共に祖母ではなく祖父が読んでいた物だったが、
ごろごろしながら見ていた。

一番1階に行く用事は牛乳をもらうことで、その場で牛乳を飲んでいた。
長年使用していたせいかわからないが1階にあるコップは何かの味が
していて、2階で飲む牛乳と味が違った。

祖父母はずっと習字を習っていて、作品が襖の上に画鋲で留められて
どちらが良いか見比べていた。
習字の書き損じとか、練習した紙は天ぷらや炒め物を揚げるときに
油を吸い取る紙として使っていた。その紙を取りに1階に行くのも
子供の仕事だったような記憶がある。

祖父は毎朝神棚に何かを唱えていた。
祖母には両親がいないときに一緒に夕飯を食べたり、何かおやつをもらったりもした。

仕事でも、大学の研究でも祖父母には色々と説明していたが
祖母はへぇそうなの、とわからないのかわかっているのか、
たぶんわかっていないんだと思うけれど話をいつも聞いてくれていた。

入社した頃か、大学の4年くらいだったかパソコンを一時期教えた。
でも、
パソコンという道具は平穏に暮らしているおじいさんおばあさんにとって、
ましてや孫が一緒に暮らしているおじいさんおばあさんにとっては
ハッキリ言って全く必要ないのだ。

キーボードの位置を苦労して覚えて、メールを書いたところで
肝心の孫は隣にいるわけだし
電車の時間が調べられて便利なんだよ、と言ったところで
東京では駅に行けば電車は来るし、
ニュースはテレビで見ればいいし。

順調に習っていた祖母が、
キーが覚えられないという風に言ってきたあのあたりから
兆候はあったのかしれないな、と思う。

後悔している事がある。
祖母を車で、太極拳の教室に連れて行ったときのことだ。
その頃には認知症が進んでいたのか、祖母がはっきりと教室の
場所を思い出せなかった。僕自身も車の運転にそこまで慣れておらず、
春日通り沿いの道で、目的の場所を通り過ぎてしまってから
祖母に対して怒ったのだ。

結局30分くらい遅刻してしまったかも知れない。
春日通り沿いから、一方通行で入れなかった道を
祖母がT字路で右に曲がるまで、ずいぶん遠くまで歩いていったのを
後ろから見ていたが
本当に頼りなげで、今思えば自分自身がどこに向かっているのかわからなくて
困っている様だった。

忙しくて、という理由で祖母の何かお願いを後回しにしたことも結構ある。
でもそういうのは今後悔しても仕方がないからしないことにした。

認知症が進んでしまい、普段使っている電子レンジのボタンがわからなくなり
どのボタンを押せばテレビがつくのかわからなくなり、
それでも僕も家族も深刻には思っていなかった。

色々なことがわからなくなっていたと思うけれど、
去年の3月の末には僕とエミクロくんの披露宴にも来てくれた。

その後すぐに、祖父がケガをして入院して、
祖父のお見舞いに行った祖母が転倒してケガをしてしまった。
もうこの頃にはたぶん歩くことを司る脳の一部分も駄目になってしまって
いたんだろうと思う。

ずっと体の不自由だった祖父の世話も限界に来ていて、
祖父母は老人ホームに入った。
そこはとても良い老人ホームだったけれど、

祖父と祖母は、祖母が祖父の世話をするのが日常だったから
それが出来ると思ってしてしまうのだが、
実際は出来なくて危険だからという理由で
別々の部屋に入ることになった。

その頃には祖母は数字が書いてあるカードを、
1,2,3,4,5,と順番に並べるだけのことが
出来なくなってしまって、祖母は何か自分が忘れてしまったのではないかという
恐怖で、家族の話も上の空になってしまった。

祖母は自分の部屋を覚えることが出来なくて、
そこでも不安そうだった。

祖父は退院してホームに戻ったけれど、
ホームで祖母がまた転倒してしまい、入院した。
精密な検査をすると祖母の脳はほとんど無くなってしまっていて、
回復の見込みはもう無いようだった。

出張中に祖母が危篤状態になり、一度急いで帰ったことがある。
その週あたりに、病院に泊まった。
もうしゃべることもほとんど出来ない状態だった。

本を読みながら祖母と手をつないでいると
夜中に祖母の意識がハッキリして、
祖母は僕が飲んでいたオレンジジュースが欲しいと言って
(正確には、これ欲しいの?と聞いてようやくはい、と返事が出来たような状態だが)
ようやくペットボトルの蓋1杯分だけ飲むことが出来た。

僕は祖母に色々話をした。

点滴を打っているけれど、
この点滴では3ヶ月くらいしか生きられないから
胃に穴をあけて栄養を取る方法があるんだよ
ということとか、長期間入院していると
病院を移らなくてはならないこと、
胃に穴を開けたとしても良くなるのかわからないこと
祖母が意識がハッキリとしているときに
延命措置はしないでくださいと書いていたから、
みんな悩んでいるんだよということも伝えた。

色々話したらおじいちゃんを呼んできて、というので
祖父を車で迎えに行き、
祖父と祖母にまた同じ話をした。

祖母はそれまでずっと寝ているだけに見えたけれど、
「がんばっているんだけれどね、
がんばっているんだけれどねぇ」
と言ってそれから
胃に穴を開けるのは
「おそろしいねぇ
おそろしいねぇ」
と話した

結論は出なかった。

はっきりと言葉を話せたのは本当にそのときが最後くらいで、
その後祖母は何も食べられなくなり、
食べられたとしてもウイダーインゼリーを1/5袋くらい1日に
といった状態だった。

食べることすら、もう脳が働いていなくて出来ないのだ。

結局、なにか処置をすることが
良いことには思えず、祖母は点滴だけ受けた。

この頃僕はブラウザのブックマークを整理しているうちにaiboが
自動で日記を書いていたものを発見した。
そこにはaiboが写した元気な祖父母がいた。

どうしたって痩せていく祖母はその後7ヶ月間、
最後の数ヶ月は水も口にすることなくゆっくりと
なにも出来なくなっていった。

目も開けられなくて、
でも手だけは握りかえすことができた。

看護婦さんがそれは脳の反射なんですよと言っても
でも握ってくるのは祖母だったから
反射だろうがなんでもよかった。

祖母が亡くなってから、
死んだ人はどこに行くんだろう、と思った。
どこかに行くとしたら祖母はたぶんもっと元気な頃に戻りたいだろうとも思った。

エミクロくんに話すと、
何もないよ、とだけ返事が返ってきた。

そうなんだろう。
何もないはずだ。

肝心なことは覚えていないし
もっと素敵なエピソードがどこかにあるかもしれないけど、
今思い出せることはここに書いたことくらいしかない。
少ない。

祖母に怒られた記憶は1つもない。
とても美人の自慢できる祖母だった。