lost myself?

言いたいことが、あるいは考えていることがまとまっていないが
とにかく先週の土曜日?金曜日の出来事がありとあらゆる
物事を考えさせるきっかけになったような気がする。

最近気づいたのだが、物事を簡潔に伝える事を僕は嫌う。
自分が伝えたい事は全ての情報を外堀を埋めるようにしていっている。
すると逆に要点が曖昧になり、話がつながらなくなってくる
(伏線が多すぎる)ためかえって相手に理解されない。
としても、それはそれでしかたないな、と思う。

ブログのエントリーを書く上であらかじめ文章の落としどころが
決まっていることは僕の場合、3%くらいで後の97%くらいは
書いているうちに書くことが決まり、落ちのない話になる。
長い文章なんて読む人はほんのわずかだし
余計に理解出来ないものになっていくだろうと思う。
しかし渦巻いているイメージはさっきから1時間くらい
睡眠を邪魔しているので書くしかない。

何度も言っているようにこのブログは自分のためのブログであり、
外に公開しているのはおそらく自己顕示欲と、
誰かとのつながりが無いと人は生きていけないからだ。

こういう横道にそれた話を書いているうちにそのイメージは
だいぶ遠くに行ってしまっている。まあいつものことだ。

自分を失っているのか?という題にしたのはその出来事と
同時に、読んでいた村上春樹の質問回答コーナーの本、
同期に借りた「若者はなぜ3年で辞めるのか」、
それとJamiroquaiのベストアルバム発売、
ついでに追加すれば
今日電車の中吊りで見た中田英寿の自分探しの旅 
もこれを助長している。

僕の音楽の好みはこの3,4年の間で変わっていて
ブログを読み続けている人がいれば
Jamiroquaiのベストアルバムを聴いても、
さらりと流れていくだけで特にこれと言った感想を
持たないと気づくかもしれない。
サイトを運営していなかったら買わなかったかもしれない。
どちらだろう。
(DVDはでも間違いなくほしかったな)

中田英寿は自分の力で稼いだお金で世界をまわっている。
違う世界を見つけられたのだろうか。

まず、書こうと思っていたことを思いだそう。
僕はこれまで生きてきた過程において、
割と目標があった。大学受験や就職活動において
やりたいことを決定する必要が多かれ少なかれ出てくる
タイミングがあるが、僕の場合それらは後付なのか
自分でもわからないが、決まっていた。

大学ではロボットをやると曖昧ながら
小学生の時から思っていた夢をどこからか
引っ張り出してきて固定し、
就職活動の時はソニーがいい、と思っていた。
中学の時からすでにAudio Visual, ITに傾倒し
機械工学を学んでいた僕はソニーで悪いことは何もなく、
無事入社した。

そして入社してからは
仕事では(他人が開発したものでも構わないので)何か全く新しい技術に
携わること、そして既存の技術をさらに工夫していくことを
目標として、(これは別にどこのなんの製造業でも言える、非常に
一般的な技術者としての目標だと思う。)仕事をしている。
幸いながらソニーは新しい技術に日々挑戦しているし
こういった仕事に対する目標は常時電源ONのような状態にある。
目標の達成は細かな積み重ねになるし、最終的な達成はされることはない。

常時電源ONだと、キャッシュみたいなものがどんどんたまってしまって
たまにはリフレッシュすべきだとも思う。
状態に慣れてしまう。しかしそれは結構難しい事に思える。

仕事とは別の目標?あるいは自分のテーマ?としては
クールにアドリフトして自分の空間を作り上げる、ということで、
その概要のようなものはtokyo adrift 2006で書いたものだ。
あれは僕の目標に近いものだし、ほとんど僕自身でもある。

つまるところ自分が思っている以上に僕は僕自身の
目標に近いところにいた。

この2週間ほどで70万円以上のお金を使ったのだが、
ほぼこれらは自分の部屋を理想的にすることに費やされた。

届いた家具を組み立て、自分のイメージする空間を作っていく
うちに、やはりどうしようもなくセンスと資金が足りない事に
思い知らされ愕然とするわけだが、しかしそれを差し引いても
今回の改装でほとんど現状での僕の目標は全て達成された。

程度は悪いが、達成された。
それと同時に今回の出来事が起こったから
かなり混乱している。しかし達観している。楽観している。

自分も何度もそういった場面を経験しているのだが
東大にはいることが目標で入った後何をしていいかわかんなくなっちゃう、
という状態、がよく取り上げられると思うが、
今の状態はこれに近い。
目標とする理想的な自分があって、そのイメージと同化した今
僕は何をすればいいのだろうか。

イメージ通りの生活を続ける、というのが正解かもしれないが
その時点で簡単に言ってしまえば目標を失っているのである。

僕を構成するものは何も目標だけではない。
そのときに影響を受けたもの、例えば村上春樹の本とか
Jamiroquaiの音楽が僕自身の基盤となっているのも確かだ。

中学の時に全校生徒の前で地球環境に関する訴えを発表したときも
その思想はJamiroquaiだし、
圧倒的な自己完結型人間で高校生活を終えたのも村上春樹が基盤だろうと
思う。

そういった元になるもの、を糧にして僕が構成されているのだが、
今は元になるものから僕自身がどんどん成長し離れている感覚がある。
これは非常に伝えるのが難しいが、中学の時に発表した
地球環境への訴えはJamiroquaiの考えであり、僕ではない。
その頃トライセラトップスが歌っていた
「誰かの芸がもう~今キミのものでも~それを嫌えば
僕らだって矛盾してくる~」だ。

しかし今、僕はそういった基盤が無い。
僕はもう既にそれらを消化し、僕自身が存在していると
ほとんど断言できる。

すると、目標も模範すべき対象もいなくなった個人としての僕、
が今の状態で、僕自身は僕が作っていくしかない状態に
移行したんだ、と漠然と考えていた。眠れない間。

音楽や小説やあるいは芸術作品から大きな何かを受けて
傾倒することがものすごく少なくなった。
それらは僕を通り抜けていくだけになってきた。

しかし目標を失った僕自身を先に進めるのはとても難しい。

僕の人付き合いの悪さはもう誰もが知るところで、
本当に友達も少ない。ウエダクだって友達と言えるのか
微妙なところだ。なんなんだろう。

正直に言って欧米型の仕事スタイルが向いていると思う。
他人の仕事部分に干渉せず、あっさり帰宅する、とか。
飲み会は何であれ特に行きたいと思わないし、
(酒が特に好きじゃない、というのも理由だろうが)実際結構行かない。

そういうのって普通つきあいで行くものだよ、と言われても
いや行きたくないし、って感じである。

これは村上春樹の質問本でも出ていて、
一度「ああいうやつだから」と思われるとそれはそれで
楽です、と村上春樹は書いている。
しかし「若いうちはそれで仲間はずれにされるのもつらい
かもしれません」といったニュアンスでも書かれていた。

別にいいや、と思う。人付き合いに期待しなければ
それでいいんだと思う。

しかし人間誰かと繋がっていないとやっていけない。

僕が長い間 別にいいや、と思っているスタンスを
通せたのは、僕自身がとても自己中心的な存在であることと、
エミクロくんが僕を理解してくれていれば
他の人がどう思っていようと別に関係ないし、
という基盤があったためだ。
一人の女の子がいればまあ別のその他大勢は
誰がどう僕のことを思おうがどうでもいいし、という話になる。

こう文章で書くとなんかものすごく世界の中心で何たら的な
感動的な恋愛小説じみてしまうが、
全くそんなことはなく、非常にドライにそう思っている。
説明が難しい。

それとは別に、話してみたいと思う人がたまに出てくる。
なぜかわからないがそれは大抵女の子だ。
tokyo adrift 2006で書いたサキのような存在で、
そこに恋愛感情は全くない。
なぜなんだろうか。

そもそも恋愛感情は自分に存在するのか?
というのも実は結構大きなテーマとして存在していたのだけど、
その点もよくわからないじまいだ。
かつてあった気もするし、今ある気もするし、逆に無い気もする。

ごく少数の人たちとネット上で、- あるいはただブログの
読者としてだけでも – 繋がっている状態で僕は生活しているような気がするし、
実際それで十分な気もする。

やはり僕は自分を失っているわけではなさそうだ。
また落ちがなくなった。