始業ぎりぎりで打刻し、スタンバイで落としたノートPCを復帰させるといつも通り右下のアイコンが点滅した。クリックしてポップアップしたウィンドウに大崎政志の名前。開封すると
「受かったぜ、俺」
とだけメッセージがある。まじかよ、と思う瞬間に既に俺の指は
「まじ?チーフかよ?」
とタイピングして既に大崎政志宛に送信を済ませている。思考より速く条件反射のように打ち出される文字を止める術は無い。俺も大崎もエンジニアで、タイピングする文字の量は一日に日会話する語句より遙かに多いだろう。隣だろうが向かいの席だろうが仕事の内容をメールする。メールは後から責任を問いただすことが出来るし面と向かって言いにくい仕事を振る事も容易だからだ。嫌な不思議な世の中だと思う。
開封されました、というメッセージと同時に既に大崎からのメッセージが届いている。もどかしくメッセージを開く前に
「待てよ、あんたTOEIC660じゃなかったか?」
というメッセージを送信する。外資系の民生機器を製造する我が社ではチーフエンジニアになるには今年からTOEICのスコアが700必要だった。相手が開封すると同時にこちらも先ほどのメッセージを開く。
「いや、チーフじゃない。あえて言えば先生、だな。」
意味はわからなかったが
「先生!」
と速攻メッセージを送ると
「わしかね?
わしを呼んだかね?」
というメッセージが入っている。ふざけている場合じゃあない。
「いやまて、あんたどういうことだ」
説明してくれ。この後受けた説明は俺にとって衝撃だったし、結局何も出来なかった俺の愚鈍さを全て表現しているようでもあり少なからずその後の人生を考える必要があった。
「それよりさあ今日のベルック。何あれ。」
大崎からメッセージがポップアップする。うんざりだぜ、という雰囲気が画面越しに漂う。
我が社の社長はベルジュホというフランス系アメリカ人だ。社長は毎日のようにブログを英語で更新している。ベルジュホ・ネットワークというタイトルで俺と大崎はベルックと略している。
Don’t stop while beat them, Don’t stop after beat themねー。なんだって打ち負かそうとするのはアングロサクソンの悪い癖だしさ、さらにこの混沌とした状態でさらに突き進めっていうのがいただけないよ。最近のうちの設計はユーザーを考えるんじゃなくってあくまでG社の製品に追いつけってスタンスじゃん。猪突猛進されてもこっちはついてけねえよ、ってことだろ?精神論語ったって意味無いんだよ今。
そういうやりとりをする。考えている事はほとんど同じだ。
全く同じ内容を送信し合い、シンクしたぜ今、とか言って喜んでいる。
「それとさ、見た?我が社のライバルっていう記事。」
うちのライバルにグーグルとかマイクロソフトって。こういう企業選んじゃうのってどういうセンスしてるのか疑っちゃうよね。例えばさ、マツダが、Danonがライバルですって言ってるくらい意味がないじゃんね?いや、相手がすごいのはわかるけどライバルとして戦う土俵じゃないっていうかさ。例え悪いって??ああ、何?株価総額とか知名度とかあるいはブランド力的にライバルっていう意味なのかな。まあそう言うとらえ方もあるかもしれないけどさぁ。
タイプしながら通常のメールを処理する。
正確には、タイプしているときは他のことは出来ない。
これって不便だ、と思う。
タイプしながら別の、例えば受信した画面を見たいのが俺の本音だ。
特に大崎とタイプしている内容なんてほとんど頭で考えるよりは条件反射であって特に画面を見ている必要なんて、全然、無い。
デスクトップタイプのメモリを3ギガ積んだPCで設計をしながら、ノートブックでメールと資料。
キーボードはシンクロしている。カタタタタタ
更新されたRSSを見ても経済のニュースは明るい話が全く無い気がする。
円ドルレート見たら87.5円で、ちょっと早まってドルだいぶ買ってしまった身には痛い。
ついでにダイア建設が倒産していた。2年前くらいにこの会社の株を買っていたが、
持っていたらと思うと恐ろしい。しかしまあ、トヨタの株を持っていたので実質損失は変らない被害を被っている。
しかし円高ということは、輸入関連企業にはすごく追い風になっているはずなのだが、雇用問題にしても何にしてもニュースはどちらかと言えば悪い方向にしか流れていない気がする。ずるがしこい世の中。日本人の大好きなブランド品はものすごく得なはずだ。これまですごい円高だったからそうとも言えないか。まあ製造業に比べたら輸入関連の雇用人数は知れてるかもしんないしーとかく言う俺も円高で賃金がかさむ日本人社員として切られかねない。
「俺はescape while you canと言いたいね。圧倒的に。俺自身にも、あんたにも。」
大崎はそう言う。
受かったのはそう。チーフじゃあない。
奴はこの状況から脱出したのだ。