merits and demerits of nationalism

15がホテル・ルワンダを見た感想をblogに掲載していて、
それを読んで大学の時に受けた授業を思い出した。
ホテル・ルワンダはご存じの通り、日本で上映が無くなる
可能性があったんだけどmixiでなんか盛り上がり、ってやつ。
ルワンダのフツ族とツチ族の紛争を描く。

大学の時に受けた授業はそのタイトルすら忘れてしまったのだが、
教授はなかなかの熱心さだった。
しかしご存じの通り理系単科大である電気通信大の学生って、
そういう文系的な授業にはハッキリ言ってほとんど興味を示さない。
なんて言うか、そういう知的好奇心のあからさまに無い人って嫌いなので
今も交流がある大学の友達が5人もいないのはそのせいだ。ともかく、
そこで教授は、BBCのドキュメンタリーを流した。
ルワンダのフツ族とツチ族の紛争である。

紛争の理由までは覚えていないのだが、
道ばたに転がる死体が
ともかく強烈に印象に残る、そんなドキュメンタリーだった。

それで、その授業を何度か僕はたぶんデートか何かで休んだんだけど、
単位ほしさに、その次の授業でビデオみたい人には貸すと言った
教授の言葉に便乗し借りた。

で、その借りたビデオの内容が
民族主義の功罪っていうやつで、先ほどの
ルワンダのフツ族とツチ族の紛争やセルビアモンテネグロ、
あるいはイスラエル?の問題などを例を追ってとらえて
功罪をあげたもの。

それに対してレポートを書く課題があって、レポートが出てきたので
コピペしてみる。それにしても、環境問題や様々な問題をそれらしく
レポートすることはあっても、行動するかと言えばしない。
(ゴミは馬鹿丁寧に分別するけど)
そういうのがみんなの悪いところで僕の悪いところで、そして君の
悪いところでもある。

ちなみにこの後まじめなレポートを何か書いて、
教授から
「君のような生徒がいると、
 こんな大学でも授業を行っていて良かったと思う」
とメールを受け取った。

これだから友達が5人もいないのだ。

民族主義の功罪について
授業では主に東欧の民族主義に関する事項を扱ったわけだが、まず自分がどの民族なのか、それをどのように意識するのかといったことを踏まえておかないと、この事項について深く考えることができないのではと思った。そこでそれについて考えてみた。

僕はどの民族に属するかと言えば日本である。その日本で僕がどれだけ民族意識を感じているかというと、それほど感じていない。なぜなのか。まず僕は、おそらく日本の民族であるということが当たり前すぎて逆に意識されないのだと思った。様々な民族が身近に暮らしているわけでもない、国家や民族、宗教での激しい対立を経験したことのない僕は、それ故に自分を他の民族と比較する機会があまりなかった。そのため民族意識があまりないのではないかと。

しかし実際は、外国人をみれば自分と異質だと思ってしまうから、民族意識があるのだろう。自覚を伴っていなかったのだな、と感じた。次に気付いたのは、日本人(もしくは日本国民)と意識することが、日本民族と意識するのと等しいのかという問題だ。日本人と思うことと、民族意識を感じることは別の問題であるような気がしたのだ。授業で配られたプリントの、民族の定義をしめす項目の一つに、民族とは、「われわれは日本人(日本民族)であって中国人(漢民族)ではない、といったわれわれ意識の共有」と書いてある。しかし、民族と国民というのは別物だ。民族と国民は絶対に違うものだ。それなのにこの定義の文では日本人という例を用いたので僕は混乱してしまった。この場合例として使って欲しかったのは、例えば「われわれは日本民族であってアイヌ民族ではない」とった文だ。この場合両者は日本人であって、民族と国民を混同してしまうような誤解は生まなかったはずだ。授業で扱った、国の中から独立した民族という事柄は、この「国民」ではないという意識、すなわち民族意識から独立の道を歩んだわけである。国民と民族が同一なわけがない。最初に述べたように、自分の民族などに関する事柄をはっきりさせようとしたところ、このことにつまずいてしまった。

結局、日本人とは思っているが日本民族という感覚をあまり持ち合わせていないということに気付いた。

民族主義について考える上で、民族という言葉についてすら、いかに自分がきちんと理解していないかを再認識した。さらに、『二十歳の頃』という、東大の学生が立花隆の指導のもと、様々な人にインタビューしたものをまとめた本を読んでいると、「日本は、この四半世紀国としての自己形成も出来ていない、あなたがたの世代はこれから大変だ」といった話も何人かの話に出てくる。こういったことは、僕のような世代の民族意識、すなわち先程述べた、民族という感覚があまりないことに繋がる気がする。

人間は帰属が容易に確認できる集団に属したいという感情がある。僕に関して言えば、日本という集団がすぐ側にあって、その集団に無意識に属している。この集団は民族なのかということは気にしないことにする。この点は、民族主義の功績ではないかと思う。同じ民族である、ということがこの感情を満たすのだ。

しかし同時に、これは罪過にも関わってくる。人々は、外国ないしは遠い階級なり環境からやってきた有力者の支配下にあるより、自分たちと同じ進行や民族に属する人々によって秩序を与えられる方を選択肢がちである。このためにたとえ外国人の支配がいかに善意であっても、虐待を伴うかも知れない自分たちの一員による統治に安心を求める。

僕は民族主義の功罪を述べる上で、授業でその両方を習ったとはいえ、やはり罪過の方が功績をはるかに上回るほど大きいと思っている。上に述べたことで、外国人の支配が完全に悪意である場合、独立を促すのは民族主義であることは確かだ。しかし、民族主義が支配を促しているのも確かなのだ。自分の民族はこの民族より優れているとして、支配したはずなのだ。独立というのは支配を前にしなければ成立しない。民族主義がなければそもそも植民地支配がなかったとは考えられないだろうか。そう考えると民族意識は、人間が何かに属したいという感情故に生まれた悪しきもののように感じてしまう。

文化的な独立については、民族主義が一役買っているのは確かにだろう。しかし難しいのは、民族や国家に誇りを持たせ、文化的に独立であることを教える歴史教育をしようとすれば、民族に優劣をつけるようなことになってしまうということだ。授業で見たBBCの ビデオで、セルビア人とアルバニア人の子供達は小さな頃からお互いの民族を悪く言えばけなしあうような教育を受けていることを知った。このようなやり方をされれば子供は相手の民族はひどいやつだ、という意識も勝手に形成されてしまう。これはもう刷り込みに近いのではないかと思った。こういった教育の上で成り立つ民族意識は、罪過しか作り出さない気がする。民族を強調する歴史文献や文化研究なるものは実際の歴史に反することが多いという。自民族の栄光や、輝かしい過去を利用して国民の感情を動かす。その上でもし、「栄光」にあたるものが無かった場合は神話などに基づく幻想によって代用する。このことを見ても、非常に民族意識というのはよいように利用されている気がする。

最近読んだ本の中で、登場人物がこう話す。

「本当の危機感と、本当の知性がなければ民族主義は悪に染まるのです。」

もしも、と僕は思う。世界全体がひとつになって、みんながそれに属しているという安心感があれば。ジョンレノンのイマジンだ。最近ではアメリカでテロ報復ムードが高まる中、湾岸戦争時と同じくこの曲がラジオの放送自粛曲になった。アメリカの民族意識を戦争へ持っていこうという試みだ。その後オノヨーコが、Imagine all the people living life in peaceという八語だけをニューヨーク・タイムズに全面広告で掲載した。
僕の視点から見て民族主義は悪いことが多い気がするのだ。