Tokyo Submarine Airport 1999-2006 06

 最初に戻ってきたのは嗅覚だった。

 「雪の匂いがする。」僕は声に出したつもりだったけれど、声は冷たい風に流されて空気になってしまった。遥か昔の記憶が頭をかすめた。目が暗闇に慣れるように光に慣れてくると、あたりを見回す事が出来た。そう言えば彼女は?ここは?ふと、曜日の感覚が消えてから何日経ったのだろうと思った。そこはどこかの建物の屋上だった。もう一度僕は何か独り言をつぶやいたが、冷たい風に流されて消えてしまった。彼女はすぐそばで毛布のようなものをかけて、ひざを抱えて眠っていた。僕の聴覚がおかしいにしても、あたりはやけに静かだった。ほとんど音が聞こえない。僕は彼女の時計を見た。時計は10:15 19で止まっていた。僕は一瞬凍りついた。時間が止まっていた。音のしない町、眠ったように見えて息もしない彼女、言葉にならない独り言、僕が動くと起こる、周りの空気の冷たい波紋。全てがそれを物語っていた。僕だけが動いていた。そして僕の周りの空気と、その波紋だけが動いていた。ふと思いついて、僕は彼女の顔に触ってみた。彼女の時間が動き出すかと思ったが、彼女は動かなかった。彼女の寝顔はとてもきれいだった。少し思考回路が停止するくらい。しばらく見つめてから、僕はとりあえず彼女を置いて、建物の下に出てみようと思った。屋上は柵で囲まれていて、赤いゴムのようなもので覆われていた。ドアのある小屋のようなものがある。おそらくあれが出口だろう。僕は歩いて行った。ドアを空けると広い階段が下へと続いていた。彼女はここから屋上に出たのだ。建物は古そうだったが、頑丈そうだった。一階一階がひどく高いなと思った。ここは学校だなとわかったのは2階降りてからだった。僕たちの学校とは結構違ったけれど、やっぱり学校だという事は間違いなかった。
 ふと僕の頭に、この学校の教室で僕が女の子を見ている映像が流れた。全然記憶に無かったし、女の子の顔もはっきりしなかった。(だいいち僕は地上の人では無いのだ。)ひどく頭が痛んだ。
 僕はこの止まった時間をまずなおさなくちゃと思いなおして、外に出た。
 
 その時僕が持っていたのは、青く透明なナイフとノートコンピュータ、小さな釘がたくさん入ったフィルムケース、既に小さくなっているユカの心の殻、そしてライトだけだった。
 コンピューターもライトも死んでいたし、他のものも取り立てて役に立つようには見えなかった。外に出てみたが、まだそこは学校の敷地内のようだった。空中で止まってしまった噴水があった。僕は止まった水に触れた。水は僕の手で動きを取り戻し、手からこぼれ落ちる瞬間また空中で止まった。ふと思いついて、噴水の中に手を突っ込んでみた。思った通り、僕の手のまわりから水は波紋を作って滑らかに動き始め、やがて静かになった。僕は池の中にノートコンピュータを入れた。動いている時間の水に囲まれたコンピューターは動き始めた。電源である水の時間が動くのはとても大きな収穫だ。
 僕はサブマリンエアポートのサーバから、過去に夢に入った者たちのデータのアクティブページを手に入れていた。事前にアクティブページを解読しようとしたが、どうしても出来なかった。暗号解除を行うと侵入がばれる仕組みになっていたのだ。出発前に全てのアクティブページの情報を、百科事典の内容全てをつまようじに刻むくらいに圧縮して保存したので、今から暗号解除をする事は可能に思えた。
 該当アクティブページはTSAの機密プロジェクトの1つにあった。やっぱり。ただでさえ圧縮している上に、難解な暗号で書かれたページを読めるように直すのは時間がかかりそうだった。でも僕のまわり以外、時間は全く動いていないのだ。仕方ないと思って、池に手を突っ込んだままコンピューターに解読させた。
 だんだん手がだるくなってきたので僕は池の中に入ってしまった。海に残してきた水の感覚に包まれて、僕は吸い込まれるように眠りに落ちた。
 僕はユカの心の殻にが発する夢を見た。夢の中では彼女だけが彩色されていた。うまい言葉も見つからず、僕は彼女を見つめていた。彼女の髪や腕や胸からきれいな光が時々僅かに光って消えた。僕の噛んでいるクールミントガムの香りが漂った。きれいな目に吸い込まれそうになって、夜の星が光った。キミはとてもきれいに光ってるよと伝えたかったのに、時だけがただ過ぎていった。